祈りに導かれる生活
詩編86、フィリピの信徒への手紙
呼吸が命そのものであるように、祈りは信仰の生命そのものです。本詩の時代背景は不明ですが、それはいつの時代にも通じる信仰者の魂そのものです。試練の中で主の助けを切に求める詩人の祈りは「祈り」の大切な要素を示しています。
(1)主を呼び求める祈り 1∼7節 ここには注ぎ出す祈りがあります。「私は苦しむ者、貧しい者」「私は忠実な者」「あなたは恵み深く、赦しを与える方」と。またここには待ち望む祈りがあります。「私に耳を傾け、答えて下さい」「私は日夜あなたを呼び求めます」「私の魂はあなたを仰ぎ見ます」「嘆き願う私の声を聞いてください」「苦難の日に私はあなたを呼び求めます。あなたは必ず答えてくださいます」と。
(2)主をほめたたえる祈り 8∼10節 「まことにあなたは大いなるお方 奇しき業をなさる方。あなただけが神。」と。
(3)主への献身と感謝の祈り 11∼13節 「私の思いを一つにし あなたの名を畏れる者にしてください。」「私の魂を深い陰府から 救い出してくださいました」。と。
(4)主の御介入を求める祈り 11∼17節 「恵みのしるしを私に現わしてください。私を憎む者たちはそれを見て恥じ入るでしょう。」と。
祈りは信仰の生命線です。日々祈る者となりましょう。
2026・7・12
神と共に生きる幸い
神が約束される本当に幸せな人生とはどのようなものでしょうか。詩編84編は神殿の礼拝で神と出会い交わる喜びを歌っています。巡礼の旅を続け、シオンの山にある神殿を訪れた信仰者が、神の臨在の前に出ることができた喜び、本当の幸せを歌っています。
「幸いな者」という呼びかけが5、6、13節に繰り返し出てきます。本当の幸せがここにあるのです。
(1)生ける神がおられる人生の幸い 2∼5節 「私の魂は主の庭に思い焦がれ、絶え入りそうです。生ける神に向かって、身も心も喜び歌います」(3節)。後に使徒パウロはイエス・キリストによって罪赦され、神に捕らえられた喜びを表現しました。「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」と。「罪の赦し」こそ何にも替えがたい喜びです。
(2)神を力とする幸い 6∼8節 健康も、仕事も、財産も、快楽も、友達も大切ですがあてにはならないものです。しかし聖書は、「幸いな者、あなた(神)を力とし、心の中に王路を敷く人は」(8節)と歌います。
(3)神を信頼する幸い 9∼13節 「主よ、私の祈りを聞いてください」(9節)。試練がやって来た時にも、私たちは祈りによって恐れに打ち勝つことができます。
2026・7・5
一粒の麦
イザヤ書60:1∼3、ヨハネによる福音書12:20∼29
捨てきれないものを背負った感じの日々、何かを果たしているようで心底納得できていない、そうした思いから解放されて、悔いのない人生を歩ませていただきたいものです。
主イェスへの妬みと戒律主義の宗教体制の崩壊への危機感から、指導者たちが主を抹殺しようと蠢くなか、主はご自分に備えられた十字架の死の時が近づいていることを察知しておられました。そんな中、過越祭でエルサレムに来ていたギリシャ人たちが主イエスに会いたいとやってきました。それは異邦人も神のもとのにやってくる終末の時代のしるしを思わせました(イザヤ60)。
(1)「人の子」の栄光 23、28節 主は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。それは大観衆の前で光を浴びることではありませんでした。神に背いた人類のために神ご自身が身を低くして救いの道を開く事、十字架に赴かれることでした。
(2)「一粒の麦」としての主イエスの死 24、27節 マルコ14:32∼36
主イエスはご自分の十字架の死を一粒の麦として「地に落ちて死ぬ」こと即ちご自分のすべてを放棄することであると言われました。そのことによって多くの人が命を得るのです。
(3)「一粒の麦」としての私たちの死 24∼26節 主イエスの道は私たちの歩むべき道でもあります。おのれの野心を捨て神のお召しに従う時、悔いのない、実を結ぶ命を全うすることができるのです。
2026・6・28
イエスと子ろば
イザヤ書42:1∼4、ヨハネによる福音書12:12∼19
聖書は神が用いられる真の仕え人の特徴は「謙遜」だと語ります。
本箇所はいわゆるエルサレム入城の様子を描いています。折しも過越し祭のさ中、人々は主イエスによるラザロの復活の奇跡によって興奮し、主を歓呼の声で迎えます。歌われた過越し祭の詩編118の中心は来るべき約束の救い主の待ち望みです。この喧騒の中で主イエスは「子ろばを見つけ」お乗りになってエルサレムの町に入られました。福音書はそれがゼカリヤ書9章9節の預言の成就であると語ります。真のメシアは戦車ではなくろばの子に乗ってやって来られる、と。神は圧倒的な力で人を屈服させるのではなく、穏やかな慈しみによって人の心を救うというのです。
(1)主イエスは謙遜な救い主 主は十字架の死によって私たちの罪を負い、心開く人を救ってくださるのです。ここに無限のへりくだりがあります。
(2)主イエスはいと小さき器をお用いになる 私たちは子ろばです。主は謙虚に自分を差し出す人をお用いになります。
私たちのために十字架の道を歩んでくださった主に感謝しましょう。高ぶりを捨て主をお乗せしましょう。
2026・6・21
ナルドの香油
出エジプト記35:26∼29、ヨハネによる福音書12:1∼8
主イエスがラザロを生き返らせたことで、信じる者が起こされたと同時に主を殺そうとするファリサイ派の人々が現れました。
過越祭が近づき主は再びべタニアを訪れました。夕食の席には弟子たちと共にラザロがいました。その時マリアが純粋で高価なナルドの香油を主の足に塗り、髪でその足を拭いました。これを見たイスカリオテのユダがその行為を非難し「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と責めました。この言葉はマリアの姿と主に従えなかったユダの姿を対比させています。
(1)マリアの感謝の心 主の足元で主の話を聞いてきたマリアは、ラザロを生き返らせてもらった感謝を、一番大切なものを献げて表したのです。
(2)主の葬りのしるしとして 主はマリアの行為を十字架の贖いを記念するものとして受け止められました。ルカ7章には涙を流し主の足に香油を塗った罪深い女のことがしるされています。この人に主は、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。
(3)私たちの感謝 十字架の死によって罪から贖われた私たちはそれを感謝し、私たちの心と思いを献げましょう。
2026・6・14
神の栄光を見る信仰
民数記11:23、ヨハネによる福音書11:28∼44
マルタとマリアの兄弟ラザロの病について知らされた主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(ヨハネ11:4)と言われました。主がべタニアに行かれたのはラザロが死んで四日後でした。
主を迎えたマリアも、マルタと同様「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言い、泣きました。一緒にいたユダヤ人たちも泣きました。主はそれを見て憤りを覚え、心を騒がせられ、そして涙を流されました。
(1)主イエスの涙のわけ 主の思いはどのようだったのでしょうか。憤りを覚え、心が騒いだとあるのは、神の栄光を期待する信仰が見られなかったからなのでしょうか。
(2)神の栄光を見る信仰とは それは復活を信じる信仰です。「私は復活であり命である」と言われた主のみ言葉を信じる信仰です。それは、神はご自分の願いを聞いてくださると信じられた主ご自身の信仰です。
(3)私たちに語られた主の信仰の言葉 主は「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」(ヨハネ11:40)と言われました。み言葉に立ち、見ずして信じる信仰こそ、私たちをして神の栄光を見させる信仰です。
2026・5・31
福音を語る力
ヨエル書3:1∼2、使徒言行録2:1∼21
ペンテコステは教会がスタートした記念の日です。その原点を確認したいと思います。
ご復活の主は天に帰られる前に、弟子たちに、約束の聖霊を待ち望め、聖霊が降るならば力を受けて主の復活の証人となるのだと言い残されました。弟子たちは言われた通りエルサレムの二階座敷で祈り続けました。そしてその十日目に集まっていた弟子たちの上に聖霊が降りました。その時から彼らは確信に満たされて、十字架と復活による救いをすべての人たちに語り始めました。その結果三千人が悔い改めてキリストを信じ洗礼を受けました。そこから教会が歩みを始めました。
(1)聖霊が注がれたということの意義 聖霊は弟子たちを造り変えてくださいました。重要なのはセンセーショナルな現象ではなく、弟子たちに救いの確信、赦しの喜びが宿ったことです。
(2)私たち一人ひとりのペンテコステ 聖霊を待ち望む者にそれは与えられます(使徒1:4∼5、8)。そのためには自分のありのままを告白し十字架と復活の主を仰ぐことです。(使徒2:36∼39、ルカ24:46∼49)
(3)キリストの証人としてわが身を捧げること それまで人目を恐れていた弟子たちは、その日から恐れず人々に福音を伝えました。救いの確信、赦しの喜びが与えられる時、私たちも悩む隣人にキリストを伝えずにはいられない者とされます。
2026・5・24
死を越え行くもの
イザヤ書25:6∼10、ヨハネによる福音書11:1∼27
「死」は命あるものにとって自然と見ることが出来ますが、よく考えるとそこにはその者の悲哀、悲惨が潜んでいます。
主イエスと親しいべタニアのマルタ、マリア、ラザロの三人を不幸が訪れました。ラザロが死の病に襲われたのです。姉たちはすぐに主イエスにそのことを伝えました。しかし主イエスが彼らを訪れたのはそれから二日後でした。その間にラザロは息を引き取ったのでした。主のこの不可解な遅延には深い意味があることを弟子たちに話されました。
ようやく到着された主を迎えに出た長姉マルタに主は「あなたの兄弟は復活する」と告げました。それは神への漠然とした希望、はたまたファリサイ派の終末における死人の復活の信仰とは明らかに異なる宣言でした。
聖書は死を人間の自然とは見ません。それは神に背いた人間に対する裁きであり(創世記3:22∼24)、人間を包む悲惨なのです。イザヤは人間の悲惨としての死への勝利こそ来るべき救いの成就であると叫びました(イザヤ25章)。
使徒パウロは死こそ人間の罪のもたらす悲惨であると語り、キリストの十字架と復活のあがないのみが私たちを死から解放すると言明しました(ローマ6:23)。復活は単なる教理ではなく、「わたしは復活であり、命である」と言われるキリストが今も後も共におられることそのものなのです。
2026・5・17
イエスのみ業
ある熱心な仏教徒の青年から電話がありました。「神はどこにいる?」と。神が創造者ならなぜ世界は今のように混乱しているのか、と。動機はともかく、人は時に神について想いをはせるのではないでしょうか。しかし神は真面目な疑い、問をむげに退けないお方です。
生まれつき目の見えない人の目が癒された出来事は反響を呼びました。ファリサイ人は主が安息日に癒しをされたこと、また主イエスが彼らを偽りの牧者とされたことから主に対する反感を抱きました。これに対して主イエスは、彼らの不信に心を配り「私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(38)と言われました。
(1)真理を求める疑い 22∼29 パスカルはその「瞑想録(パンセ)」の中であの目の見えなかった人の「神は…神を敬い、そのみ心を行う人の言うことは、お聞きになります」との証言に触れています。神さまは誠実な懐疑を退けず、確かな信仰に導いてくださいます。
(2)主イエスの業を信じる信仰 37∼38 知識の信仰が行き詰まった時、主がこれまでなしたもうた無数の偉大な救いの業を信じましょう。
(3)信仰の確信 40∼42 牧師の家庭で育った私も思春期に信仰への懐疑を経験しました。しかし主はそんな私を退けず、時間をかけて主イエスの十字架と復活の御業による確信へと導いてくださいました。
2026・5・3
教会はキリストのからだ
聖書は神から世界に祝福をもたらす使命を与えられた民の歴史を描いています。そして、その歴史は教会という共同体の中に結実すると告げます。
(1)イスラエルから教会へ 主なる神はアブラハムを通してイスラエルの民をお召しになりました-創世記12:1∼8しかし民は挫折しました-列王記下24:20。しかし主はご自身の僕の苦難を通して民を赦し回復を約束されました-イザヤ40:1∼2/エゼキエル37:1∼10。その約束は新約のキリスト教会において成就しました-ペトロ一3:9∼10。
(2)教会とは何か 教会は救いの信仰に立つ群です-マタイ16:13-19。それはまたキリストの血によって贖われた群れです-使徒20:18。そして教会はキリストのからだです-使徒9:1∼5/エフェソ1:20以下。
(3)私たちに求められるもの この教会に加えられた私たちに求められているのは1)互いに愛し合うこと-ヨハネ13:34、35。2)主のからだの肢として自分を献げることです‐ローマ12:1∼8/エフェソ4:14∼16。
新しい年度、お互いが神に召されたキリストのからだとして互いに愛し合いましょう。互いのために祈り、主にある親しい交わりをしてまいりましょう。さらに、自分を主のからだの肢として主と教会に献げましょう。
2026・4・26
良い羊飼いイエス
エゼキエル書34:7∼16、ヨハネによる福音書10:7∼21
聖書は、指導者と民を羊飼いと羊にたとえています。また主イエスはご自分を羊を飼う良き羊飼いであるとされました。
(1)悪い牧者とは 悪い牧者とは指導者であるのに神の思いとは違う行動をとる者、羊を狙って正門を通らない強盗、危険が迫ると羊を捨てて自分を守る雇人と言われます。
(2)良い牧者とは 門番に認められ、門から入ってくる羊飼いです。この飼い主は羊のことを心配し、愛しています。羊は羊飼いの喜びです。
(3)良い羊飼いは羊のために命を捨てる 主イエスは羊と羊飼いの関係について語られます。主はご自身を牧場の門であるとし、門を通って入る者は救われると。「私は道であり、真理であり、命である」。門を通って入る者は救われるとは主を信じる信仰を意味します。主は私たちのために命を捨ててくださいました。
羊は羊飼いの声を聞き分けます。私たちはどうやってまことの羊飼いの声を聞き分けるのでしょうか。それは信仰による祈り、み言葉に聞く、そして聖霊の導きを求めることによってです。
2026・4・19
今は、見える
イザヤ書35:1∼10、ヨハネによる福音書9:24∼34
聖書は、信仰の世界はそれを見る目が与えられなければ見ることのできない真実な世界があることを教えてくれます。
(1)因果応報説を克服されるイエス・キリスト ヨハネ9:1-3には生まれながら目の見えない人が主イエスに出会い、その目が癒され見えるようになった出来事が記されています。最初弟子たちは主に尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか。」と。モーセの律法には主の掟を冒す者はその罪を三代、四代までも問われるとあり(出エジプト20:1-6)ユダヤの因果応報説の背景となりました。一方後の預言者エゼキエルは因果応報論を否定し、個人の責任を説きました。主イエスは人の不幸は運命の故ではなく、そこにこそ神のわざが現されるのだ、と言われました。
(2)「見える」ということ ヨハネ福音書において「見える」とは単なる肉体の目のことではなく、神の国の現実、生まれ変わりの命とは何かを見ることのできる霊の目を意味しています。人生を照らす光を見る目(8:12)、人生の道を照らす光を見る目(11:9,10)。人を闇から光へと救う光を見る目(12:35、36)。イエス・キリストを神の子、世の救い主と認めることのできる目(17:24∼26)です。この人は目を開かれ、主イエスをわが救い主と認め、告白することができたのです。ファリサイ人は目がふさがれ、主イエスの真実を見ることが出来ませんでした。
2026・4・12
死は吞み込まれた
詩編16章10~11節、コリントの信徒への手紙一15章50~58
今日はイエス様が私たちの罪と死を打ち破って甦られた記念の日です。
紀元一世紀の半ばころ使徒パウロの第二回伝道旅行で生まれたのがコリント教会でした。繫華な港町にある教会は様々な問題を抱えており、教会からの問い合わせに答えたのが本書です。
(1)イエス・キリストは事実よみがえられた 15章冒頭には復活の主に出会った人々の証言が記されています。「事実キリストはよみがえられた!」人の罪の赦しが永遠に完了したことをそれは宣言しているのです。救いが成し遂げられたことを復活は宣言します。
(2)キリストの復活はクリスチャンの復活の初穂 復活を否定する人々に主の復活を説くパウロはいつしか終末の時におけるクリスチャンの復活について語ります(15:12∼22)。主の復活はその初穂なのだと。信じる者の復活こそ、私たちの究極の希望です。
(3)死への勝利 信じる者の復活は死への勝利です。イザヤ、ホセアの言葉を引用しつつパウロはその勝利を歌い上げます。それは①復活の命は朽ちる体を栄光の体に変える(50∼58)。②死への勝利とは罪、掟からの解放を意味します(ロマ7:18∼8:3)。③勝利の生活 復活信仰は迷わない信仰の歩みをもたらします。またあふれる奉仕の力を与えます。
復活の希望に満たされ、心一杯主と隣人に仕えていきましょう。
2026・4・5
三本の十字架
イザヤ書53章1~5節、ルカによる福音書23章32~43節
受難週にあたり三本の十字架の私たちにとっての意味を学びます。ルカは主イエスとともに十字架につけられた二人の犯罪人について詳しく描写しています。
(1)誰も負うことのできない十字架 それは三人の真ん中に立てられた主イエスが負われた十字架です。「父よ、彼らをお赦しください」と祈られ、苦しみの中に負われた私たちの罪の贖いのための十字架、神の御子にしか負えない十字架でした。
(2)十字架につけられた罪 十字架刑は、当時犯罪人の刑でした。主イエスの隣につけられた犯罪人の一人は自分が犯罪人であることを棚に置いて主をののしりました。罪びとでありながら悔い改めることをしません。「罪を知る」とは自分を知ることです。パウロは主に出会い、悔い改め、自分の罪を十字架につけてしまったことを告白しています。
(3)自分の十字架を負う もう一人の犯罪人は自らの罪を知り、神を畏れ、主を見上げました。主はその時「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われました。
主は「私について来たい者は自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われました。自分の十字架を負うとは、キリストに命を献げた人生を生きるということです。
2026.3.29
神の鞭~その光と陰
イザヤ書10章5~19節、ローマの信徒への手紙11章33節
ダビデ王からおよそ200年後、北王国も南王国も繁栄の陰で神を忘れ、堕落しました。礼拝は形ばかりになり、人々は家々で偶像を祭りました。道徳は乱れ、社会には不正がはびこりました。イザヤが預言者として召されたのはこのような時代でした。
イザヤが語った神のメッセージの一つが、神は、背くイスラエルへの警告として異教の帝国アッシリアをお用いになるということでした。アッシリアの王や将軍たちは力により周辺諸国を支配しつつありました。そしてついに、北王国イスラエルも占領されてしまい、南ユダ王国も威嚇されるようになりました。
しかし本箇所では、神の道具として用いられたアッシリアもまた、その野望、尊大さ、高ぶりのゆえに最後は裁かれ滅びることが告げられています。現代もまた、先の見えない混乱の時代となっています。その中で私たちが求められていることはなんでしょうか。
⑴罪の悔い改め イスラエルもアッシリアも、慾に任せた人生を悔い改めねばなりませんでした。砕かれ、悔いたた魂に神は光を与えられます。
⑵信頼を学ぶこと 混乱の時代であるほど神への信頼が試されます。神はご自身を信頼して待ち望む者に必ず応えたまいます。
⑶希望に立つこと 「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」(ローマの信徒への手紙8:25) 私たちは先が見えないこそ神の約束を信じ、神の国の成就の希望を持って忍耐するのであります。
大いなる光を見た
*イザヤ8:23~9:6、ヨハネによる福音書1:9
前8世紀の終わり、イスラエルは当時台頭していたアッシリアの脅威にさらされていました。国内的には異教の民間信仰の蔓延、社会的不正の横行があり、特に北王国は前722年アッシリアの侵略を受け、国土は分割されてしまいました。まさに「苦悩に満ちた暗黒」を経験していたのです。神はこの時代に預言者イザヤを通して、やがて来る救いの時代を約束されるのでした。
⑴人々の暗黒 21、22節
アッシリアはイスラエルの民の多くを捕虜として連れ去ったり、異国人を連れてきて住まわせました。残った民は過酷な抑圧と屈辱を強いられたのでした。神に選ばれ召された民も、今や神をないがしろにした罪のゆえに苦しみ呻くのでした。私たちの人生にも通じます。
⑵神の光、約束のメシア 8:23~9:6
ここでイザヤの預言は突如その調子を変えます。民の背き故の暗黒の運命を告げた預言者は、その裁きに替えて神の救いの時の到来を宣言するのです。ここに、裁きを超えてそのご愛のゆえに民をあがない救う神の約束が与えられます。そしてその救いの時は、後の日に立てられるメシア、救いの王によってもたらされるとの約束です。「一人のみどりごが私たちのために生れた。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」呼ばれる」。この預言はおよそ800年後、イエス・キリストの降誕によって成就しました。神はすべての民をその罪から救い、解放する救い主、大いなる光であられます。
こんな私が救われる?
イザヤ書28:14~17、*ローマの信徒への手紙4:13~25
ローマの信徒への手紙の今日の箇所は正しい信仰の姿を私たちに指し示しています。
パウロはここまでで、人が救われるのは掟の行いによるのではなく、信仰によるのだということ、アブラハムはそのひな型であるということを説きました。ここではその信じるとはどういうことか、又何を信じるのかを語ります。
⑴信じるとはどのようなことか ローマ4:13~22
ここで語られているのは、
①人は掟の行いではなく、信仰によって義〔罪赦され、神の子として受け入れられること〕とされる。
②「信じる」とは、「死者を生かし、無から有を呼び出される神」(17)を信じること、「望み得ないのに望みを抱い
て信じる」(18~20)こと、
「約束したことを実現させる神」(21)を信じることです。
それは神のみ言葉に立つことにほかなりません。信じるとはいたずらに理にかなわぬことを信じることでも、無茶
に走ることでもありません。それは神の真実を信頼することです。
⑵何を信じるか 23~25
それは私たちの救いのためのキリストの十字架と復活を信じることです。イエス・キリストはこの私の罪のために
十字架にかかり、私が神の子とされるために罪と死を滅ぼしてよみがえられました。このおとずれを信じることで
す。
⑶自己卑下からの解放 4:27
私たちが救われるために、キリストの十字架と復活に付け加えるべきものは何一つありません。私たちは何も持
たず、ありのままキリストの贖いによって救われたのです。とすれば、私たちにはいささかの誇りもありません。と
同時に自己卑下や自己憐憫の余地もありません。それらすべてから私たちは解放されたのです。
ただ、恵みによって生かされた者として、示されるままに罪を悔改め、喜んで自分自身を主イエスにおささげす
るのみです。私たちはキリストという命綱で私たちを滅びから救われたのです。
2025.11.23
シニア祝福礼拝 輝き…生ける限り
聖書 詩編90:11-17
「敬老の日」を迎えました。高齢化社会を迎えて久しくなります。こうした機会に、個人としても社会としても「老い」ということに思いを巡らすことは大切なことですね。お互いの「老い」を神さまの前に、感謝をもって分かち合いたいものです。
モーセの名を冠するただ一つの詩、詩編90篇は、神の民イスラエルの捕囚という試練を知る詩人が、神の前に人生のはかなさ、人間の罪のもたらす痛み、しかしそのような人間を赦しの愛といつくしみで包み、立ち上がらせる神の力を歌っています。
⑴永遠の神の前における人間のはかなさ 1~6節
「『人の子らよ、帰れ』とあなたは言い 人を塵に帰らせる」(3節) 創世記2:7に「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」とあります。詩人は、このような人の成り立ちを思い起こし、人の生と死を思います。神が声と掛けられると人は塵に帰るのです。ここに人生の現実があり、人のはかなさがあります。
ある人が「車いす初めて乗りて亡き母のあの日の悲しき目線を知りぬ」との歌を投稿しておられましたが、人生のはかない現実をよく言い表していると思います。
⑵人間の罪のもたらすもの 7~12節
「私たちの日々はあなたの激しい怒りに ことごとく過ぎ去り
私たちは吐息のように年月を終える。
私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。」
人は罪の負い目を負うて生きている者のようです。そしてそこに神の怒りを予感するのです。
「逝く時の残す言葉を胸に寝る『ありがとうよ』の後に『ごめんね』」 これも投稿短歌です。
もし「赦し」がないなら、人は何と悲惨な存在でありましょう。
⑶人を立ち上がらせる神の愛 13~17節
「あなたの僕らを憐れんでください」(13節)詩人らはいまだある種の苦難の中にあります。しかしそこには神の赦しと癒しへの確かな希望があります。なぜなら、人がいかにはかなく、罪を意識する存在であったとしても、そのようなものを赦し、包む神の憐れみ=いつくしみこそ、人をしてそこから立ち上がらせる力だからです。
キリストの言葉に「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすればあなたがたの魂にやすらぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30)とあります。ここにこそ、人を再び立ち上がらせる神の愛があります。
私の知るある牧師の祖父は、長くキリスト教を拒んでいました。彼は毎日読経を欠かしませんでした。それは、西南の役で彼が命を奪った薩摩の兵士たちの供養でありました。官軍として征伐に臨んだ彼は手柄を立てましたが、生涯人を殺めた自責の思いに苦しんでいたのです。周りの勧めを拒んで教会には金輪際いかなかったかれでしたが、あるとき教会で宣教師を招いて伝道会が開かれ、やっとの思いで出席したのです。そこで宣教師は、イエス・キリストはあなたの罪のために、あなたに代わって十字架について死なれたと単純に語りました。そのメッセージが彼に心に響きました。からはその晩ついに、心を開いてイエス・キリストを受け入れました。すると、それまで鉛のように彼の心を覆っていた罪責感が取り去られました。彼は暗い罪の闇からついに解放されました。そして、喜びの中に他の人々のために祈る生涯を送る者とされたのです。
「あなたの業があなたの僕らに 輝きがその子らに現れますように」(16節) 神の愛は、はかない、罪に苦しむ私たちを解放し、輝かせてくださるのです。
2025.9.14
宿命それとも神の業?
イザヤ書53:1-5、*ヨハネによる福音書9:1-12
私たちは時として願わない不幸を背負って生きなければならないことがあります。ヨハネによる福音書の今日の箇所には、生まれつき目が見えず、道で物乞いをして暮らしてきた人が出てきます。
弟子たちはイエスに尋ねます。
「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(1節)
ユダヤの伝統では、ⅰ.モーセの律法:災いは掟を守らなかった結果(出エジプト記20:5)。ⅱ.ユダヤ教サドカイ派:災いは人の罪の結果。ⅲ.ユダヤ教ファリサイ派:人の不幸は神の定め。・・・いずれにせよ本人は身の不幸を嘆くほかはありませんでした。
しかしイエスは言われたのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と(2節)。
イエスはここに、自分やまわりお落ち度を悔やみ、不幸な定めを嘆く呪縛からの解放を宣言されました。イエスはご自身、ご自分の苦難によって民を赦すメシア(救い主)として世に遣わされた方でした。イエスによれば、神はイエスの十字架と復活の出来事を通してすべての人の罪と呪いを取り去り給うたお方、人の人生の不条理、悲しみ、苦難の壁は、実はそれらによってその人の人生を通して神の御計画、神の業が現れるためのものなのだ、ということです。
私たちの人生の現実がたとえどのようなものであったとしても、それは呪いのしるしなのではありません。その人
生をとおしてこそ神のみ心が現わされるためなのだ、とイエスは言われます。
2025.7.13
エゼキエル書37:1~10、*ヨハネによる福音書20:19-23
キリストが過ぎ越しの犠牲として十字架にかかられてから五十日、 五旬祭の日に約束の聖霊が弟子たちの上に注がれ、教会が誕生しました聖霊降臨は教会の命と力の源泉です。
復活の主は弟子たちの集いに現れました。ヨハネの今日の箇所はその報告です。
弟子たちはユダヤ人を恐れて部屋にこもっていました。
【19節】
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」」~主は復活の栄光の体で弟子たちの所に来られました。
「平和があるように」~恐れている弟子たちに主は平安あれ、と告げました。
【20節】
「手と脇腹をお見せになった」~つい数日前主を裏切った弟子たちに赦しを宣言されました。手の傷と槍で刺された脇腹は人のすべての罪と不真実に対する赦しの完成の証しです。
「主を見て喜んだ。」~ご復活の主にお会いした時、弟子たちのすべての恐れと落胆は吹き飛びました。
【21節】
「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」~主はすべてのキリスト者を福音の証人として世に遣わされます。
【22節】
「息を吹きかけて言われた」~これは聖霊による新しい創造です(創世記2:7参照)。それは新生であり(ヨハネ3:3)、枯れた骨の復活です(エゼキエル37・9,10)。
「聖霊を受けなさい」~宣教は人の力量ではなく、聖霊によって実が結ばれるのです。ペンテコステはそのことの証しです。 2025.6.8
闇のうちを歩かず
詩篇139:1-12、*ヨハネ8:12-20
今日世界では科学技術の進歩にも関わらず暗黒が増しています。聖書はキリストこそが闇を照らす光であると告げます。
⑴人生を覆う闇 ヨハネ1:1-5、
ここに言う「やみ」とは罪の闇、愛なき闇です。「きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます。」(ヨハネ第一
2:9)
⑵人生を照らす光 9,3:13-18、ヨハネ第一3:16
「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」(1:9) 神の御子キリストは光として世に来られました。ご自身の命を十字架にささげ、私たちに命の光を与えてくださいました。
⑶命の光 ヨハネ8:12、ヨハネ第一1:3-7
「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
暗い部屋もカーテンを開け放つなら光が差し込んで明るく照らします。私たちも自分の内なる闇を神の前にさらけ出し、十字架の主イエスを仰ぐなら、神は即座に光を注いでくださいます。主イエス・キリストの前にひざまずき、私たちのすべてを御前に注ぎ出そうではありませんか。
2.25.5.18
新しく生まれる
詩編13:6、*ヨハネによる福音書3:1-15
私たち人間は、神のすばらしい作品です。それを本当に知れば、自分への思い、他の人への思いが変わるのではないでしょうか。
ユダヤ人の指導者ニコデモはある夜イエスを訪ねました。挨拶する彼に主イエスはいきなり「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。新しく生まれるとはどういうことでしょうか。
⑴神との正しい関係、新しい関係
ユダヤ人も神の民としての歴史の中で多くの罪を犯してきました。神との正しい、新しい関係が必要だったのです。
⑵主イエスは人の心を知っておられる
主は私たちの心に何があるかをご存じの上で、私たちに出会ってくださるお方です。弟子たちと、ニコデモと、サマリアの婦人と、トマスと、ペトロと、そして私たち一人一人と出会ってくださるのです。
⑶主イエスを通して神と出会う
神の奇跡は、私たちが存在するという事実の中にすでに起きています。にもかかわらず人は神を信じない。そこに人の罪があります。新しい命は「水と霊」(洗礼と聖霊)によって与えられます。イエス・キリストが十字架で私たちのために死んでくださり、私たちの罪のあがないとなってくださったことを信じるなら、神の霊によって永遠の命に結びつく新しい命に生きる者とされるのです。
2025.4.27
アンタッチャブル
*民数記5:1-4、マタイによる福音書8:1-4,14-17
20世紀初頭の米国で、実在の禁酒取締官の、密造、密売組織との死闘の記録をもとにテレビドラマ化され、後に映画化された「アンタッチャブル」が一世を風靡しました。政府の任命した取締官(Gメン)チームはアンタッチャブルと呼ばれました。その名前の二つの意味「無敵」と「不可触」をキーワードに民数記から学びましょう。
エジプト脱出後、荒野で2年を過ごした神の民は、兵士の陣営を先頭に約束の地に向かって旅立ちます。本箇所は、陣営が神の前に清くあるべきことを告げています。
⑴陣営:主が臨在される所
「私がその中に住んでいる宿営が汚されることのないようにしなさい。」 (5:3)
「陣営は聖なるものである。」(申命記23:13)
陣営は神がおられる聖なる空間でした。それゆえ、そこはきよくたもたれなければなりませんでした。なぜなら、神こそが民を導きたもうおかたであることを、皆が忘れることのないためでした。
⑵汚れを取り除くこと
「規定の病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男も女も宿営の外に出しなさい。」(2、3a)
それは厳格な要求でした。汚れたものと掟によって規定された皮膚等の腫瘍を患う者、男女の分泌物など、人や動物の死体に触れた者は「汚れたもの」として厳しく排除することが求められました。なぜなら、古代イスラエルにおいては、これらのものが宗教的な「汚れ」と考えられたからです。神の居所である陣営からはこれらすべての「汚れ」が取り除かれねばならないと、モーセの掟は規定していたのです。
旧約の歴史から私たちはこのような厳格な儀式的清さの要求の意義と限界を教えられます。
この「厳格さ」はまさにいかなる妥協も許されない、まさに「アンタッチャブル」です。この「清さ」への妥協なき要求こそ、イスラエルを周辺諸民族とは比較にならない高い倫理性をもつ民としました。
しかし一方、そうではありますが、このような外面的、儀式的な掟は、イスラエルを高慢、堕落から完全に守ることはできませんでした。預言者たちは民の堕落を指摘しました。しかし彼らは神への背きを捨て去ることはできませんでした。それで預言者たちは、神による終末の救いの到来を預言したのでした。
⑶教会:新約の宿営
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなががたが広く伝えるためです。」
(ペトロ一2:9)。
キリスト教会は、キリストによって召し集められた新約の神の民、聖なる宿営です。
①贖いの恵みに立つ宿営
マルコによる福音書1:10-45で主イエスは、「規定の病」の人に手を伸ばして触れ、その人を癒し、清めを宣言されました。イエスはアンタッチャブル=不可触の人に「触れ」癒されるお方です。掟の限界を、そのご愛によって打ち破ってくださいました。それゆえ教会は、キリストの贖いの愛に立つ陣営なのです。
②聖なる宿営である教会の聖さ
主イエスが満ちたもう教会は、清くなければなりません。旧約のような外的掟によってではなく、キリストの十字架の贖いによってです。コリントの教会は、街の不道徳が混入しつつある教会として知られていました。彼らは「愛」のゆえに見逃されるべきであったでしょうか。「ノー!」と使徒パウロは明言します。キリストの血によって清められた教会は、表れたいかなる汚れとも共存することがあってはならない、と。僅かの汚れも、教会の生命をむしばむのです。私たちは聖なる恐れをもって教会のために祈ろうではありませんか。
2025.3.16
危ないゆるみ
民数記22:22-35、*ヨハネの黙示録2:12-17
聖書の黙示文書は、混乱と危機の時代の信仰者に神の究極の救いを語り、過酷な事情の中にある者を励まします。
伝統ある小アジアの大都市ペルガモンはBC.200年代には衰退していました。しかし100年代にはローマの庇護を受け再び繁栄します。その支柱になったのはローマの神々の招請と皇帝の崇拝でした。壮麗な神殿はその象徴でした。この時代に福音はこの地方に伝えられたのです。教会は激しい迫害に直面しました。復活の主イエスはこの教会に語りかけます。
⑴迫害に打ち勝った教会
この教会は迫害に耐え、命をかけてその信仰を守りました。その象徴はアンティパスという兄弟の殉教でした。主は語りかけます。「私はあなたの住んでいる所を知っている。・・・あなたは私に対する信仰を捨てなかった」と。主イエス・キリストは私たちの戦いを、苦しみをご存じです。
⑵ペルガモン教会の危機
しかし一方教会は当時広がっていた異端信仰と偶像教の影響を受けつつありました。誤った教えと道徳の退歩が忍び寄っていました。これに対し主イエスは厳かに、端的に、そのゆるみを「悔い改めよ」と語りかかけられます。
⑶勝利した者への報い
信仰者はこの世にあって試練と苦難に遭遇します。しかし主は、ご自身を仰いで忍耐し勝利した者に、やがて来るべき神の国に住む保証ともいうべき「隠されたマナ」「白い小石」を与えようと約束されます。かつて神の民はエジプトでの奴隷生活からモーセに率いられて脱出しました。そのとき荒野をさまよう民を養った天からの食べ物、それがマナでした。主は、地上の苦難の時代から完成された神の国に至るまで、御自身の者たちを「マナ」で養うと言われます。「白い小石」とは神の民が寝ても覚めても額や腕に着けていた、神の掟を納めた小さな箱を意味すると言われます。信仰者を守り神の国へと導き入れる、神のみ言葉を象徴する「白い石」を与えると主は約束されます。
使徒パウロはローマで殉教したと伝えられます。しかし、生涯彼の確信は変わりませんでした。この世の富や安泰は衰え、過行くもの、人が死ぬときこれらのものは何一つ持ってゆくことはできない。人の唯一の希望は、来たつべき御国、終末において完成される神の国であり、イエス・キリストこそその希望を確かなものとして信じる者に与えてくださるのだ、と。 2025.2.16
イエス・キリストの黙示
イザヤ書第25章6-9節、ヨハネの黙示録第1章1-8節
黙示録は、異象(幻)というシンボルを通して、混乱の時代の中で確かな道筋を示す書です。それは恐れではなく確信を与えようとするものです。
本書は第一世紀の末葉、使徒ヨハネが主から与えられた黙示を中心として、彼の感化を受けた人々によって著された諸教会へのメッセージです。この時代、教会はローマ皇帝による度重なる迫害に脅かされていました。著者は、苦難の時代の中でどう歩むべきかを明らかにします。
⑴主こそ世界の歴史を統治されるお方
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4、8節) 主は、世界歴史そして私たちの人生を創始しまた締
めくくられる方です。主は私たちの信仰生涯を勝利で締めくくって下さるのです。
⑵世界と私たちに与えられている基礎
「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方」(5節) 神のすべてのご経綸の根本にあるのは私
たち人類の罪を赦し、神の子とする十字架のあがないの血潮です。
⑶黙示録のメッセージ
「命の木に与る権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いであ
る。」 (第22章14節) 恵みの下で真実に砕かれ、悔い改め、主の前に歩むことは最も大切なことです。
2025.1.5
神の愛にとどまる
レビ記19:18 *ヨハネの手紙一4:7~21
本書の著者は、「初めから聞いている教え」として「互いに愛し合いましょう」と語ります。
主イエスも「互いに愛し合いなさい」とお命じになりました(ヨハネ福音書15:17)。そして「神の愛にとどまりなさい」と勧めます。
神の愛にとどまるとは・・・
⑴神が私たちを愛した愛
独り子キリストを私たちの罪のあがないとして十字架に引き渡されました。
⑵私たちが神を愛する愛
それはすなわち、神が私たちのために与えてくださったキリストを信じ、彼に従うことです。
⑶神に愛されている者として兄弟たちと互いに愛し合う愛
これらの愛に生きることが神の愛にとどまるということです。使徒パウロも、彼の書いたどの手紙でも、神に愛され、神を愛し、人を愛することを大切に説いています。
ここで私たちは愛に関して、聖書の「良きサマリア人」の話、三浦綾子の「塩狩峠」などを思い浮かべます。私たちは隣人と共に生きています。しかし「隣人となる」ことはあのサマリア人のように、その人に「寄り添う」ことです。それはキリストに似た者となる道です。
2024.11.24
現れた永遠の命
エレミヤ記31:31-34、*ヨハネの手紙一1-10
永遠の命、それは聖書の中心メッセージです。この命の希望について学びましょう。
イエス・キリストが天に帰られ、聖霊が降臨し教会が誕生して半世紀、誤った教えが入ってきました。まことの神にしてまことの人であるイエス・キリストをご人格を否定する考えです。それで本書は、罪は別としてすべての点で私たちと同じ人間となられた神の御子こそ、ただ一人の救い主であることを説き、信仰の生命線を明らかにします。
⑴キリスト者の「しるし」は”喜び”
「私たちがこれらのことを書くのは、…喜びが満ち溢れるようになるためです。」(ヨハネの手紙1:4)
キリストを私の救い主と信じる時、経験したことのない不思議な喜びが訪れます。これがキリスト者の「しるし」です。
⑵この喜びのみなもと~父なる神と御子との交わり
その喜びは、この世が与えるはかない喜びではなく、万物を創造し、人類をこよなく愛し、神に背く人間を救うために御ひとり子さえ与えてくださった父なる神と、その御子イエス・キリストとの人格的な交わりに入れられた喜びです。
⑶喜びを妨げるもの、闇=罪にどどまること
命の道、神との交わりをさまたげるただ一つのもの、それが「罪」です。私たちが神の前に自分の罪深い現実と、そこから生まれた罪の過去とを認め、告白するとき、永遠の命の輝きを手にさせていただくことができるのです。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(1:9) 2024.11.3
実らぬぶどう畑
*イザヤ書5:1-25、マタイによる福音書21:18.19
この夏の過酷な暑さのため、野菜や果物が打撃を受けていると言われます。私たちの人生は実を結んでいるでしょうか。
預言者イザヤが活動した2700年前のイスラエルは、信仰も社会の堕落し、悪が世に満ちていました。本箇所は、民を愛する神と、その愛を裏切る神の民の姿を記して、実を結ばない生涯の悲惨を描いています。
⑴実を結ぶ生涯への召し 「私は歌おう、私の愛する者のために ぶどう畑の愛の歌を。
愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。 彼は畑を掘り起こし、石を取り除き 良いぶどうを植えた。
また、畑の中央に見張りのやぐらを建て 搾り場を掘った。」 5:1,2b
神は世界の造り主であるご自身を世に証しする使命のためにイスラエルの民を選ばれました。実り豊かなぶ
どう園として愛し、期待されたのです。そして今神は、み救いに与った私たちキリスト者をも神のために実を結ぶ
者として期待しておられるのです。
⑵実を結ばぬ民への主の御警告 「そこで今、あなたがたに知らせよう 私がぶどう畑にしようとしていること
を。垣根を取り払い、荒らされるに任せ 石垣を壊し、踏みつけられるに任せる。 私はこれを荒れ地にす
る。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨とあざみが生い茂る。 私は雲に銘じて、もはや雨を降らせな
い。」 5:5,6
本章には、欲望に捕えられ、不正義を恥じない主の民の現状と、その民に対する主のお裁きが語られていま
す。
⑶神の栄光を現す生涯へ
キリストを信じ、罪より救われた者のただ一つの応答は、この恵みの主に私たちのすべてをお委ねし、身をもっ
て神の栄光を現すことです。「自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (コリント一6:20 )
2024.9.29
内側からのきよめ
イザヤ書3:18~4:6、使徒2:2
イザヤの本箇所は、人間の罪に対する神の裁き、悔い改める人間への神のきよめと愛が示されています。
⑴民の罪と裁き 3:16~4:1
「シオンの娘たち」とは、擬人化されたエルサレムとその指導者たちです。彼らの欲、自分に注意を惹くための姿が装身具、装飾品で表されています。神はこれらのものを彼らからすべて取り去られると言うのです。「美しさに替えて恥を」と。戦で夫を失った婦人が、生きるために恥を忍び、他の男性に名目だけでも彼の名を名乗らせてほしいと訴える姿が描かれます。
⑵残りの者 4:2~4
⑴に述べられた民の実情にも関わらず神は生き残った者、神のもとに帰ってくる者(2:2~5)をご自分の霊によって、その内側をきよめ、命の書にその名を書き記すと約束されます。「主の若枝」とはイザヤ53章では約束のメシアを表します。ここでは主に立ち帰るイスラエルのすがたとしても語られています。
⑶内側からきよめる神
「命の書」は黙示録21:27では「子羊の命の書」とあり、「命」とはキリストの贖いによる命であることを示します。内側からきよめるとは
①聖霊による悔い改め
②聖霊による、汚れからの洗い
③聖霊の満たし(主の光の中を歩むこと) です。
私たちが主イエスにすべてを明け渡すとき、主は逃れ場、隠れ家となってくださいます。
神のたもう平安
テモテへの手紙 二 1:9~12
年を重ねると健康、家庭、生計、将来などさまざまな課題に直面します。そんな私たちに不思議な平安を与える神の恵みということを学びたいと思います。
パウロはキリストとほぼ同時代を生きたユダヤ人でした。環境に恵まれ、ギリシャ・ローマ文化の教養とユダヤ教としての素養を身に着けた彼は、若くしてユダヤ教指導者と目されていました。しかし彼の時代に生まれたキリスト教会の撲滅運動のさなか、彼に現れた復活の主イエスに出会い、自分の過ちを悟り回心します。その後は福音の宣教に没頭します。
このパウロの動向に反発したユダヤ人らは暴動を起こし、その結果パウロはローマの法廷に立つことになります。その間、未決囚として牢につながれました。パウロは獄中から若き伝道者テモテに励ましの手紙を送りました。
⑴人生の真の平安
「父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みと憐れみと平和がありますように。」(1:2) パウロは、自分自身獄につながれた身なのに、弟子テモテへの手紙において、「神の平和(平安)」を祈るのです!
⑵その平安はキリストから来る
パウロは「過去の罪」をキリストの贖いに委ねました。
「この恵みは・・・今やキリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力に
し、福音によって命を不死とを明らかに示してくださいました。」 (1:10)
獄中にある「現在の自分」を、共にいたもう復活の主キリストの勝利に委ねています。
「私はこのような苦しみを受けているのですが、それを恥じてはいません。」(1:12a)
まだ見ぬ「将来」を、世の終わりまで導きたもうキリストに委ねています。
「私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがお
できになると確信しているからです。」(1:12b)
2024.9.15 シニア祝福礼拝
歴史に関わる神
*イザヤ書1:1-20、ローマの信徒への手紙2:1-11
預言者イザヤは、神は歴史においてご自身を啓示されると説きます。
イザヤは前765年に生まれ、およそ70年の生涯を送りました。前740年頃預言者としての召命を受け、以後数十年に渡り神の言葉を語り続け、ユダヤ教の伝説によれば殉教の死を遂げました。イザヤは、偶像礼拝と世俗化に浸かったイスラエルの人々に、神の警告と救いへのメッセージを語りました。
⑴主なる神は歴史の中にその支配を現したもう
本書の中心メッセージの一つは「神は聖なるお方」であるということです(6章3節)。イザヤ書全体では「聖なるお方」との表現は34回現れます。それは、神は唯一の神、全能者にして世界及びその歴史の創造者であること、歴史の中にその裁きと救いを表されるお方であるということです。
⑵人々の現状への告発
イザヤは神の民の現状とそれに対する神の裁きを告げます。その現状とは、「偶像礼拝」(世の勢力との馴れ合い)2ー4節、「神の正義の無視」17、21ー23節、「心の伴わない宗教」11-15節でした。
⑶悔い改めへの招きと救いの約束
「主は言われる。
さあ、論じ合おう。
あなたがたの罪がたとえ緋のようであっても
雪のように白くなる。
たとえ紅のように赤くても
羊毛のように白くなる。 1:18
神は不義を見逃されないお方です。しかし一方において神は、人に罪を赦し、救うお方なのです。「聖なる全能者」とはそのことを言っているのです。
2024.8.1
すべてが揺らぐ中で
*詩篇75、ローマの信徒への手紙8:18~25
信仰生活を支える「かたち」としての礼拝は大切です。本詩は、祭司に導かれた礼拝で、民は敵に囲まれている情勢の中で、彼らを守り、助けたもう神への信仰を歌うとともに、聖書の神こそが全世界を正しく治めたもうとの信仰を告白します。
神の家で捧げる礼拝において、人々は改めて彼らを守り、支え、導き給う神を繰り返し思い起こし、感謝の賛美をささげるのです。
⑴人生のすべてが揺らぐことがあっても、主は私たちの人生を根底から支えたもう 4節
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一10:13) 主こそ確かな岩です。
⑵主こそ人を高め、あるいは低め給う 8,9節
私たちは絶えずへりくだって主のお取り扱いに身を委ねていきたいと思います。「神は、高ぶる者を退け へりくだる者に恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)
⑶礼拝の大切さ 2,10,11節
週ごとの礼拝において、世をすべ治めたもうお方を私たちの希望として賛美し、また証ししていきましょう。
「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:25)
2024.8.18
救いの業の永遠性
詩編74 ; ヨハネによる福音書17:1~5
この詩には「敵はすべてを荒らし尽くしました。」(3節)とあるようにバビロニア帝国によるエルサレムの神殿破壊の中で、神の速やかな助けを求める民の願いが書かれています。
⑴感じられる永遠性
人間は永遠を知ることはできませんが、長い間の苦しみ、嘲りの辛さ、破壊の悲惨さに「神よ、なぜ永遠に捨て置くのですか」と訴えています。私たちも理由はともかくそのような「永遠にですか」という思いを抱くような時もあったのではないでしょうか。
⑵神の支配の永遠性
イスラエルの民の歴史を振り返ります。神はこの世界を創造されました。あのつらいエジプトの奴隷状態から救い、海を分けて導いてくださったのです。民は訴えの根拠を神ご自身が冒涜されているのは神ご自身の問題であること、神がご自身の与えた契約を守り給うお方であることにおいて、訴えます。しかし、この苦しさは民の神への背きの故でもあります。詩79には、神の怒り、民の罪の告白、悔い改めが書かれています。
⑶救いの業の永遠性
長く辛いと感じるときもある私たちの人生に、神はキリストを与え、十字架の死による救いの業を行ってくださいました。「キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」 (ヘブライ人への手紙13:8)
2024.8.11
主はわが受くべき分
*詩編73、フィリピの信徒への手紙3:7-10
詩編73篇は神殿で楽隊によって歌われた嘆願の詩で、まず神の恵み深いことを告白し、次に陥りそうになった心の状態、そこから引き出されたこと、自分の真の幸いとは何かを述べます。
⑴うらやむ心 13ー22節
人の世には、悪しき者が安泰を得、驕り高ぶるものが栄える現実があり、詩人はそのありさまを見て妬み、うらやむ思いになったと述懐します。しかしそれは自分の足をすべらせることでした。
⑵神の前で悟ったこと 13ー22節
神の前に自分の心をさらけ出したとき、うらやみ、ねたんだことが空しく、彼らの結末が悲惨なことを悟り、悔いま
した。
⑶主こそわが受くべき分 23ー28節
神の前で、神が自分を愛し、導き、共に歩み、助けてくださることを知り、「神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分」と告白しています。
人は、神の前に出て心をさらけ出すまで7,さまざまな思いにとらわれます。しかし神は、神の前に歩む者を導き、共にいてくださいます。イエス・キリストは、私たちの人生という盃に、十字架の上で流された私たちすべての者の罪のあがないの血を注いでくださったのです。
人をうらやむことはありません。主はあなたの人生をあがなわれたのです。
2024.7.28
力ある逃れ場
*詩編71 ; エフェソの信徒への手紙1:20ー23
人生には様々なことがあります。苦難、つらいこと、試練・・・そして人生には逃れ場が必要です。この詩人は自らの過去、現在、未来を信仰の目を通して見つつ、主なる神こそ人生の力ある逃れ場であると語ります。
⑴母の胎内にいるときから
「母の胎にいるときから あなたに支えられてきました。
あなたが母の胎から私を取り上げてくださいました。
私はあなたを賛美します。」 詩71:6
私たちは皆がクリスチャンの家庭に育ったわけではありませんが、神は私たちの存在を通してご自身を現してくださいました。私たちは主にあって、「母の胎にいるときから」とその恵みを告白することができます。
⑵あなたこそわが希望
「わが主よ、あなたこそわが希望。」 71:5
信仰によって立っているこの詩人にとって、主なる神は現在の試練の中で力強い逃れ場、救いです。主は信じ祈る私たちに必ず答えてくださいます。
⑶来るべきあらゆる時代に語り伝えるその時まで
「神よ、私が老いて白髪になっても
どうか捨て去らないでください。
あなたの腕の業を、力強い業を
来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。」 71:18
私たちは信仰によって人生を振り返り、未来に向かって神の業を語り告げるその恵みをそれぞれ充てられてい
るのです。
「あなたがたはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16:33
救いの勘どころ
詩編130 *ガラテヤの信徒への手紙 3:1-14
ガラテヤの教会の信徒たちは、パウロの伝道を通して救いに導かれましたが、救いの確信が弱く、ユダヤの慣習を守らせようとするユダヤ主義者に惑わされていました。
使徒パウロは心を痛め、「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきり示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。」(3:1)と叫びます。
パウロ自身この確信を得るまでにどれだけさまよったことでしょう。もともと戒律主義者であった彼は、主イエスを批判し、教会を迫害しました。
「私は、かつては冒涜する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、信じていないときに知らずに行った」(テモテへの手紙一1:13)と言っています。ですから、人が福音を信じるには、「聖霊」の助けが欠かせないことを知っていたのです。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』ということはできません」(コリント一12:3)
律法は大切ですが律法の「行い」が救うのではありません。私たちに代わって「呪い」となって十字架にかかってくださったキリスト(申命記21:23)を受け入れる信仰によってのみ、私たちは救われるのです。「十字架につけられたイエス・キリスト」(3:1)こそすべてなのです。
2024.6.30
キリストの福音
イザヤ書53:1-5、*ガラテヤの信徒への手紙1:6-24
ガラテヤ書は、パウロが書いた最初の書簡と言われています。パウロはこの書簡の冒頭で自分の使徒職について、「人によってではなく」と言っています。一般に「使徒」とはキリストの十二弟子について言われますが、パウロはあえて自分をキリストの使徒と言いました。
⑴パウロの使命感
かつてパウロは人一倍熱心なユダヤ教徒で、律法を順守していました。そしてキリスト教徒を迫害しました。しかしある時、復活の主イエスが彼に出会い、「なぜ私を迫害するのか」と声をかけられました。キリストはパウロを全く変えられたのです。そして彼に異邦人にキリストを伝える使命をお与えになりますした。その意味で彼はキリストの使徒なのです。
⑵ガラテヤの諸教会とその問題
当時ガラテヤの諸教会は、異邦人キリスト者もユダヤ人のようにモーセの律法を守り、男子は割礼を受けなければ救われないとの考えに影響を受けていました。かつて熱心なユダヤ教徒であったパウロは、今こそ福音を正しく伝えるべきであると示されました。
⑶キリストの福音
生まれながらの律法主義者であったパウロでしたが、キリストとの出会いを通して、人は掟の行いによって救われるのではなく、十字架と復活のキリストの贖いの恵みを信じる信仰によって救われることを身をもって経験しました。この、神からの一方的恵みによって罪赦され、救われた者は、この恵みの証し人として人々の中に遣わされているのです。 2024.6.9
神さまとこども
マルコによる福音書10:13-16,フィリピの信徒への手紙
アメリカ、マサチューセッツ州のC.H.レナード牧師が1856年に、こどもたちの信仰の成長を願って祝福の式をもったのがきっかけで世界の教会に広がった教会の「こどもの日」です。こどもたちが健やかに、のびのびと成長してほしいものです。
ある時人々が、イエスのもとにこどもたちを祝福してほしいと連れてきました。すると弟子たちが彼らを叱ったのです。それを見たイエスは憤り、こどもたちを抱き寄せて、頭に手を置いて祝福を祈られました。私たちもこどもらが皆幸せになってほしいと願いますが、それを阻む様々な事情があります。格差社会、競争社会、家庭の危機等々。心が痛みます。
しかしイエスは、どんなときにも、こどもがこどもとして祝福され、個性が大切にされることを望んでおられます。「こどもを抱き寄せて、手を置いて」くださるお方です。
使徒パウロは、困難に囲まれていたフィリピの教会の人々に、「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平安が、あなたがたの心と感がえとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(フィリピ4:6,7)と伝えました。
神はどんな時も、小さな私たちを何よりも大切にしていてくださいます。
2024.6.2
尽きない泉
イザヤ58:6-11、ヨハネ7:37-39
ユダヤの祭でエルサレムにやって来たイエスは、祭の最終日、祭に来ていた多くの人々に大声で呼びかけられました。これまでイエスの奇跡を見て信じ、従ってきた多くの人がいましたが、このイエスの言葉を聞いて去った人々もありました。
しかしイエスはそれでも声を大にして人々に呼び掛けられたのです。
⑴「私のもとに来て飲みなさい」
かつてイエスは、サマリヤのスカルの井戸べで、そこに来た婦人に「私が与える水を飲む者は決して渇くことがない」と言われましたが、今再び招かれます。「私のもとに来なさい、私を信じなさい。」と。
⑵信じる者への約束
イエスは、ご自身を信じる者に約束されます。「私を信じる者はその内から生ける水が川となって流れ出る。」と。
その水とは、キリストを救い主と信じる者に与えられる聖霊のことです。
⑶信じる者が受ける霊
イエスがここで語られた「霊」とは、使徒言行録1:8において、復活のキリストが昇天に際して予告された、父なる神が預言者たちを通して約束され、ペンテコステにおいて弟子たちの上に注がれた聖霊のことです。聖霊は、それを受けた者の内を清め、満たし、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」など「聖霊の実」(ガラテヤ書5:22,23)を結ばせ、キリストの香りを放たせてくれます。
2024.5.26
聖霊が与える力
エゼキエル37:1-10 *使徒言行録1:3-11、2:1-4
イエス・キリストが十字架にかかり、復活された最初の五旬祭(ペンテコステ)に聖霊が弟子たちに降り、彼らは力を受けて立ち上がりました。
復活の主は、弟子たちに約束の聖霊を待つようにと言い残して天に帰られました。聖霊こそ宣教の力なのです。
⑴救いの力
「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか』と言った。そこで、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。』」
使徒言行録2:36-38
罪の人生を悔い改めてキリストを受け入れる時、人は救われ、生きる力を受けます。それは聖霊によって与えられる奇跡です。
⑵立ち上がらせる力
「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ駆け寄って来た。これを見たペトロは、民衆に言った。『イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その何よる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです。』 使徒3:11-16
聖霊は救いをもたらし、人をがんじがらめに束縛から解放します。救いの確信がもたらす不思議な力です。
⑶証しの力
「そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。』」使徒2:14
「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」 同22a
弟子たちに与えられた救いの確信は、信仰を率直に語る自由と力をも与えました。
今年のペンテコステを迎えました。聖霊こそ、人を救い、解放し、人々が救われるためにキリスト者を用いる神の力です。いよいよ聖霊を仰ぎ、聖霊に私たち自身を明け渡していきたくあります。
2024.5.19
生ける者の母
*創世記3:20 ルカによる福音書2:51,52
⑴アダム(最初の人)の期待
聖書には、妻エバは「生ける者の母」となったとあります。人を創造された神は、生めよ、増えよ、地に満ちよと言われました。「エバ」には「生命」の意味があります。神との約束を破り、罪を犯した二人でしたが、アダムは妻を「エバ」(生命)と名付けたのでした。
⑵神の憐れみ
二人はエデンの園から追放されますが、神は二人に皮の衣を与えました。神はここで初めて人のために動物を犠牲にしています。それは、やがて神が、キリストを通して人のためになされる救いの、聖書中での最初の暗示です。
⑶永遠の命への希望
ふたりはエデンの園から追放され、神は「命の木」に至る道を守られました。しかしキリストは、神に背を向けた私たちの罪のために犠牲となられ、永遠の命への道を開いてくださったのです。
神が与えられた母の使命、女性の使命とは、「生命をつなぐ」ということです。動物も自分のこどもを守るために命をかけ、工夫をする能力を神から与えられています。私たち人間の女性も、子供のあるなしに関わらず、人を命へとつなげる使命を与えられているのです。
2024.5.12
朽ちない食べ物のために生きる
コヘレトの言葉12:1-14、*ヨハネによる福音書6:22-40
主イエスは、物質的満足で終わる人生でなく、神による平安、喜び、希望に満たされた人生を求めよ、と言われました。
⑴イエス・キリストこそ命のパン
「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35) イエスは、私たちの魂の飢えと渇きを満たしてくださるお方、永遠の命を満たしてくださるお方です。
⑵父なる神の招き
「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。」(37a) 「私の父のみ心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(40a)
父の招きのもとでは、信じる者もあれば信じない者もあります。また、同じ人でも、かつて拒んだものであっても、後日信じるというこもあります。それは切なる「招き」なのです。
(3)イエス・キリストの招き37b
「私のもとに来る者は決して飢えることがなく」(35a)「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」(37b)
イエス・キリストは、天の父から全権を託されて、信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。
今、あなたはどこにおられますか。主イエスの招きに応えようではありませんか。今も生きておられるイエスは、私たちの命であり、生きる力です。
私たちは、過行くこの世の富や楽しみではなく、キリストのたもう平安、喜び、希望に生きることができるのです。
2024.4.21
喜びを共有する
イザヤ書40:9、ローマの信徒への手紙10:1ー15
伝道は、キリストの福音によって救われた者たちが、受けた恵みを他の人々と分かち合うことです。私たちが受けた恵みとは、罪からの救い、救いから生まれる喜び、救いから生まれる平安、そして死の恐れからの解放です。
⑴罪からの救い
「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」(ローマ3:23、24) キリストは十字架によって私たちを罪とその呵責から解放してくださいました。
⑵救いの喜び
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。」(ペトロの手紙一1:8) 救いの喜びは、経験したことのない、霊的喜びです。
⑶救いの平安
「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ
14:727) 金銭や世の楽しみ、保証からは得られない平安をキリストは与えたまいます。
⑷死の恐れからの解放
「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。」(ヘブライ人への手紙2:15)
受けた恵みを分かち合うことは、キリストの者たちの務めです。
2024.4.28
安息日の主の癒し
ゼカリヤ書13:1、*ヨハネによる福音書5:1~18
ユダヤ人の祭りの間、イエスはエルサレムに滞在されました。
癒しで知られたベトザタの池の廻りの回廊に横たわる38年間も病に苦しんでいた人がいました。この人は病気の苦しみ、自らに関わる罪、さらに誰も彼を心に留めてくれない孤独感の中にいました。
主は彼のことを知り、「良くなりたいのか」と声をかけられました。彼は主に、誰も自分に手を貸してくれないことを告げました。すると主は彼に「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われました。その日は安息日でした。ユダヤ人たちはそのことで、モーセに背く者として主イエスを迫害しました。さらに主が、神を「私の父」と呼んでご自分を神と等しい者としたことで、主を殺そうとし始めました。
この個所は主イエスがどのような方かを示しています。
1.主は私たちを知り、心にかけてくださる方
主は、ご自身に向き合う者に、「良くなりたいのか」と言われます。
2.主は安息日の主
聖日は主のみ心が行われるべき日です。
3.イエス・キリストは神と等しいお方
「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された。」(ヨハネ1:18)
主は今も「私に何をしてほしいのか」と問うておられます。
証し者の原点
詩編73:23-28 *ヨハネ3:22ー30
洗礼者ヨハネは。福音書によると、イエスの母マリアの親戚筋にあたり、罪の悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。洗礼は古来、水で清める儀式として知られていました。ヨハネはやがて来られるメシア(救い主)を迎える道備えとして遣わされたのです。
ヨハネは主イエスをメシアとして示し、証しをしました。まことの聖めです。人々の罪を贖い、聖霊によるバプテスマを授けることのできるのは、イエス・キリストのみです。
人々はメシアの前に自分の罪を認める悔い改めが必要だったのです。ヨハネは主イエスに出会って言いました。「私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰える。」(3:29)と。 ヨハネの証し人としての原点はここにありました。
⑴喜びで満たされている
私たちは、救われた者としての喜びに満たされているでしょうか。信仰の原点に立たせていただきましょう。
「ただ聖霊があなたがtに降る時、あなたがは力を受け、主の証人とる。」(使徒1:8)
⑵「あの方は必ず栄え」
私たちによって、私たち自身ではなく、キリストがあがめられているでしょうか。
⑶「私は衰える」
自分の栄光ではなく、キリスト…です。私たちもヨハネの如く、キリストを指し示すものとしてこの世に遣わされているのです。
2024.3.10
人生の解放と安息
レビ記25:1-13、コリントの信徒への手紙二6:1-2
心の豊かさでなく、地位や富の優劣を競うありようは、健全とは言えません。ここまでで聖なる神に相応しい民のあり方を示した本書(レビ記)は、ここで、神は安息と解放の神であることを告げます。
⑴富を際限なく求めることの停止 1~7節
「あなたがたは六年の間、畑に種を蒔き、六年の間、ぶどう畑を剪定して、その産物を収穫することができる。しかし七年目には、地に完全な安息、主の安息がなければならない。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑を剪定してはならない。」(3,4) ここには、大地を休ませること、飽くことなき労働の手を休めるべきこと、すべては神のものであることを認べきことが命じられています。
⑵解放し、安息を約束する神 8~13節
「五十年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルのとしである。あなたがたはそれぞれ自分の所有に地に帰ることができる。おのおのその氏族のもとに帰ることができる。」 (10)
ここには、財産、雇用関係、奴隷所有権の停止と清算、解放が規定されています。神は解放と安息の神なのです。この解放の年はヨベルの年と呼ばれ、何らかの事情で奴隷や奉公人となっていた者たちは解放されて、自分の郷里、自分の親族のもと、自分の居場所に帰ることが許されたのです。主イエスは、ご自分の到来によって、真の解放の時が始まったことを宣言するとともに、人々をあらゆる悲惨と苦悩から解放される救い主であられることを宣言されました。
⑶私たちの解放と安息 10,13節
「このヨベルの年には、それぞれ自分の所有の地に帰ることができる。」(13)
使徒パウロは言いました。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(コリント二6:2) 私たちは、人知れぬ様々な重荷と苦悩を背負っているかもしれません。しかしキリストは、私たちをすべてのくびきから解放されるお方です。果てしない競争や、行き詰まった人間関係に疲れ果てた魂に、完全な安息と安らぎを約束されるお方です。
2024.2.18
悪習からの分離
レビ記20:22-24;エフェソの信徒への手紙4:17-32
この世界は、キリスト者の姿を通して神を見ます。レビ記はその意味で、世にある主の民のあり方を問います。
レビ記の本章は、主の民が聖なる神に相応しく、生活のすべての面で清くあれと命じます。それによって民は祝福されるのだ、と。
⑴神のものとされた民
私たちは、神の恵みにより、キリストによって罪赦され、神の子とされました。それは、私たちが神のものとされ、神の栄光を現すためです。
⑵神なき世の風習に染まないこと
レビ記は、偶像礼拝、性をめぐる放縦、霊媒などの習俗にけじめをつけることを求めます。エフェソ書では、新約時代の世の不道徳や金銭欲、汚れた言葉との分離を強く勧めます。聖霊の力によって、私たちは清い歩みをさせていただくことができるのです。
⑶悪習からの分離」
使徒パウロは、このような生活の基本を、ローマの信徒への手紙12:1、2に記します。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい」と。
イエス・キリストによって罪から解放された者として、真心をもって神にお従いさせていただこうではありませんか。 2024.2.4
神のために新しく造られる
イザヤ書43:1-7
本章はバビロン捕囚に時代(およそBC500年代)を背景としています。イスラエルの民自身の罪ゆえにもたらされたバビロン捕囚ですが。神は試みの中にある民に「しかし」(43:1)と言って希望のメッセージを伝えます。
⑴あなたを「わたしのもの」と呼んでくださる神
神は民に「あなたは私のもの」と言われます。「私があなたを贖った」とあります。神ご自身が民のために身代金、代価を払ったと言うのです。神はイエス・キリストを人々の罪の贖いとされました。それでキリストの贖いを信じる者は神のものなのです。
⑵あなたを「価値ある者」として見てくださる神
人は誰かに認められたいものです。しかし、誰でもない神ご自身が、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」と言ってくださるのです。
⑶あなたを神の栄光のために新しく造られる神
「あなたは価値あるものだ」と言われる神は、私たちを用いてくださいます。私たちは自分が輝いているように思いますが、輝くのは神ご自身であって、私たちではありません。神は「私の栄光のために」と言われます。神は私たちをご自分の栄光のために形造ってくださるのです。私たちの欠けや弱さを新しいものに造り変え、栄光を現す者にしてくださるのです。「神が放つキリストの香り」(コリント二2:14)とされるのです。
2024.1.28
アザゼルの山羊
レビ記16:29-34 ヘブライ人への手紙9:11-14
荒野の彷徨の頃、モーセの兄、アロンの二人の子らは、規定の香を焚いたことで主の怒りを買い、死に至りました。この悲劇を繰り返さないために、主はその罪の贖いと清めの儀式を定められました。これが『贖いの日』の期限です。罪は贖われなければならないのです。
⑴「贖い」ということ 罪の赦しのためには代償が必要であることを聖書は告げます。モーセの掟においては動物のいけにえの血が求められました。命の代償によって罪は清められたのです。罪の赦しは、注がれた血と命という裏付けによって成り立ったのです。
⑵キリストの贖い ヘブライ書は、旧約の掟は不完全なもので、人の心を変える力を持たないとし、キリストが完全ないけにえとしてご自身をささげてくださったことにより私たちの罪の代償は支払われ、人の内面が全く清められる道が開かれたと告げます。
⑶アザゼルの山羊 レビ記には民の罪を負った山羊が荒れ地(アザゼル)に追いやられたことを語ります。これは主イエスが人類の罪を負い、エルサレム 郊外の死刑場に引き出され、私たちの罪のために死なれたことのひながたです。主イエスこそ罪の赦しを与え、本当の平安を与えたもうお方です。
2024.1.7
「未来への備え」
*ペトロの手紙二3・14~18 創世記6・9~22
昨今の諸情勢は、厳しい近来を予想させます。心の備えが必要です。
⑴主の日を待ち望む者
ペトロ二書は、今ある世界の崩壊、滅亡をもたらす「主の日」の到来を予見します。「その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶け去ってしまいます。」(3章12) しかし同時に、、来るべき新天新地の希望をキリスト者に示します。「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。」(13) 私たちはどこまでイエス・むキリストの再臨を信じ、待ち望んでいるでしょうか。
⑵「主の日」に備える者
著者が強調するように、イエス・キリストご自身が終末の「主の日」の到来を預言されたとすれば、そして、私たちがその日を実感をもって受け取れるとすれば、それにふさわしい備えをしなければならないでしょう。著者は勧めます。「これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と(14)別な言葉で言えば「聖なる敬虔な生活」(11)と言えましょう。 花嫁が身を整えて花婿を迎えるように、私たちもイエス・キリストの恵みによって日々清められ、その再臨を待ち望みたいと思います。
2023.12.17
「主を知る恵み」
*ペトロの手紙二1・1~11 ホセア6・1~6
この手紙は、最後の部分に挨拶の言葉がなく、全体としてキリストにあって救われた人々へのメッセージになっており、主イエスを知ることの大切さと、知ることによって得られる恵みを語っています。
⑴主イエスを「知ること」
主イエスは事実この世に来てくださった。単なる知識としそれを知るのではなく、キリスト御自身の人格を通して知ることです。この手紙には、「神であるイエス・キリスト」とあります。主イエス・キリストを知ることは、神を知ることです。そして「知る」とは、神なるキリストとの交わりによるのです。
⑵何を知るのか
『神のなさったこと』とあります。それは、
➀命と敬虔に係わる全てのものを与えてくださったこと。
➁栄光と力ある顕現で私たちを招き、召してくださったこと(参照ローマの信徒への手紙2・10以下「異邦人にも及
ぶ救い」)。
➂尊く大いなる約束を与えてくださったこと ⅰ世の腐敗を免れ ⅱ神の本性にあずかる者とされることです。
⑶力を尽くして「知る」ことを求める
神の約束に対して「あなたがたは、だから、求めなさい。」と著者は勧めます。「信仰、徳、知識、節制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」を求め続けなさいと。神に求めるなら、これら必要なものを与えられ、実を結ぶ者、主を知る者となるのです、と。
2023.11.12
「復活の希望」 *テサロニケの信徒への手紙一4・13~18
聖書の言う永遠の命は、イエス・キリストの復活に根拠を置く、個人的、具体的な希望です。
⑴イエス・キリストの復活
ルカによる福音書24・1~5には、イエスが葬られた墓を訪ねた女性たちに、天使が、「なぜ、生きておられる方をし者の中に捜すのか」と語ったことが記されています。復活は弟子たちの目の前の現実となりました。イエスは死を打ち破って彼らの前に現れました。
⑵キリストを信じる者の希望
コリントの信徒への手紙一には、キリスト者の復活について「私たちは皆、(復活の体に)変えられます」(15・50~55)と言われています。イエスが現実に復活されたように、信じる者たちも復活するというのです。死は終わりではありません。
⑶イエスの再臨とイエスを信じて召された人々の復活
コロサイの信徒への手紙3・1~4には、イエスの再臨にあたって、すべてのキリスト者は(復活して)キリストと共に現れるのだと言われています。
召天者を記念するとは、召された人々の単なる過去の思い出でも、将来への漠然とした願いでもありません。イエスが復活したように、事実起こることを確認することです。その時、私たちはすでに世を去った人々と、顔と顔を合わせ、喜び合うこととなるのです。
すでに天に召された人々の信仰の生涯を思い起こし、その信仰の歩みに続きたく思います。
2023.11.5
「宗教改革の原理」 詩編31:2-9 ガラテヤの信徒への手紙2:11-14
改革で一番大切なものは何だったでしょうか。
⑴ルッターが残したもの
青年時代のある出来事をきっかけに修道院入りしたルッターでした。修道院の規則に従って厳格な生活を送ったルッターでしたが、「不安な良心を持った罪びと」との意識がいつもありました。
大学で聖書を講じる中で「神の義」ということに目を向けるようになりました。彼は、罪びとを罰する義(正義)の神を愛することができませんでい。やがて講義が詩編31:2に来た時、「あなたの義によって私を解放してください」との言葉に出会い、衝撃を受けます。他の箇所でも同じ言葉に出会い、「神の義」とはキリストのことであると悟りました。神の義は人間の行いや努力で得られるものではなく、キリストを通して与えられる神からの贈り物であったのです。
⑵パウロの戦い
パウロの時代、ユダヤ主義者は割礼などの外面的な掟を守ることを力説しました。しかしパウロは、私たちは私たちのすべての罪を担って十字架にかかってくださった主イエス・キリストをわが救い主と信じ、受け入れることによってのみ救われると説きました。(ガラテヤ1:16)
⑶宗教改革の原理 イエス・キリストを信じる信仰により、恵みによって義とされるということが宗教改革の最も大切な原理です。 2023.10.29
「新しく造られた者」 コリントの神への手紙二5・16~6・2 エゼキエル書36・25~27
聖書は、保田氏たち自身が一新されというグッド・ニュースを伝えてくれています。
この手紙で使徒パウロは、彼が生かされている福音、そしてその福音を宣べ伝える宣教の使命への召しを語ります。
⑴パウロの福音とは何か、それは新しい創造 16、17節
古い(最初の)創造は創世記1、2章に見られます。神は愛のゆえに世界と人間を創造されました。しかし、人間は神の思いに背き、信頼を裏切り、神から迷い出てしまいました。与えられた自由を誤用し、神よりも自分を追求する者となりました。
しかし神は、人間がご自身のもとに立ち返ってくることを待ち続けられます。
⑵パウロに与えられた召命 18、19節
神は御自分の民の育成を通して世界を救おうとされましたが、逆に人間の限界が露呈してしまいました。そこで神は、新しい創造により人間を造り変えることを約束されました。それはイエス・キリストによって実現しました。神はキリストを通して和解の手を差し伸べてくださったのです。この業に仕えるためパウロは召されました。
⑶切なる呼びかけ 20節
パウロは呼びかけます。あなたは神との平和を得ているか。神との和解を受け入れなさい、と。
2023.10.15
「独りでも満たされます」 ヨハネによる福音書4・1~26
一人の、偏見と恐れに囚われていた女性が、心の底から満たされ、生かされた出来事に注目します。
ユダヤからガリラヤに向かうイエスは、日頃ユダヤ人とは反目の仲であるサマリヤの地を通りました。渇きを覚えたイエスは、井戸のそばで、水を汲みに来たサマリヤの女性に出会いました。イエスはこの人に「水を飲ませてください」と頼みました。そこにはサマリヤの地への偏見も、女性への偏見もありませんでした。
◎生ける水を与えるイエス その井戸の水はたまり水でしたが、イエスは女性に、この水を飲んでもまた渇くが、御自身が与える水は生ける水であり、「決して渇かない」命の水であると告げました。女性は、その水をイエスに願い求めました。
◎本当の愛を必要としていた女性 命の水を求める女性にイエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言いました。実は女性は、過去五人の夫を持ち、今一緒にいるのは夫ではありませんでした。事情がどのようなものであったにせよ、この女性は、裏切ることのない本当の愛に飢え渇いていたのではないでしょうか。
◎「メシアはこの私である」 この女性のすべてを見通していたイエスが、「私を信じなさい。今がその時だ」と語りかけた時、女性は約束されたメシアであるイエスを信じました。そして罪赦される喜び、裏切ることのない真の愛、命の水をいただきました。
渇くことのない命の水、それはイエスの十字架と復活の贖いの業が完成されたあかつきに注がれた聖霊のことです。聖霊は乾いた心を癒し、赦しを与え、真実な愛を求める心を潤すのです。
私たちのために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じ、あなたも溢れる命をいただきませんか。 2023.10.1特別伝道礼拝 深谷美歌子先生
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